エッジを歩くひと----映画『ザ・ウォーク』を観て

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私は重度の高所恐怖症なので『ザ・ウォーク』の予告を観た時からすでに足がすくんでいたのだが、ロバート・ゼメキスの新作とあらば観ないわけにはいかない。まさに決死の覚悟でシネコンへと向かったのだが、勇気を出して観てよかった。まごうかたなき傑作であり、二重の意味で映画でしか味わえない体験だった。「二重の~」とは、私は地上411メートルで綱渡りをする経験など死ぬまでしないだろうということと、2001年以降、ワールドトレードセンターで綱渡りをすることは物理的に不可能になってしまったという意味で、だ。


1974年、完成間際のワールドトレードセンターのツインタワーにワイヤーを渡して綱渡りを決行したフランスの大道芸人、フィリップ・プティの実話を元にした本作の最大の見せ場は、3DCGで描かれる地上411メートルの綱渡りのリアルな再現であることは間違いないが、狂気の沙汰に思える無謀な夢に乗り込む仲間たちとの青春の季節のドラマとしても見応えがある。


しかし、平日の夕方とはいえ映画サービスデイにもかかわらず客は自分も含めて3人。前列には誰もいない状況での恐怖の綱渡りとなった。


前半のパリ編での軽妙な語り口から、スライ&ザ・ファミリーストーンの『I Want To Take You Higher』で幕を開けるNY編へ、テンポの良さでグイグイと引き込みつつ、クライマックスのワールドトレードセンターの綱渡りでは、あまりにも高すぎる場所のため、もはや怖さを通り越して何やら静謐な、敬虔な心持ちにすらなる。ワイヤー上のプティも「集中のあまり無になった」というようなことを述懐しているが、たとえ準備段階でさまざまな協力者はいたとしても、地上411メートルで綱渡りを行うのは自分ひとり。国家権力のしもべたる警察であってもワイヤー上に介入してそれを阻止することはできない。一本のワイヤーをひとりの男がゆっくりと歩く。誰をも寄せつけない、その美しさに恐怖も忘れて見惚れた。これは雲の上のバレエだ。


パリの街中で大道芸を披露する若きプティは、地面に描いた円をステージに見立て、見物客がその中に一歩でも踏み入れた場合は一輪車で平気で足を踏みつける。円の内側は大道芸人である自分の領域であり、ライン一本隔てた外側が観客の領域である、という意思表示だ。それはあたかも高座にあがった落語家が座布団の上を世界と見立て、その前に扇子を置くことで結界をつくることとどこか似ている。落語の場合、客席が聖なる領域であり、舞台は俗の領域とされる。プティの描く円も、外側の観客(世間)に対して大道芸という俗な世界を内側に形づくってはいるものの、演者によってはその関係性が反転し、舞台自体が聖性を帯びてくるあたり、スケールこそ違えど落語の世界と似ているのかもしれない。


ワールドトレードセンターの建設予想図をたまたま雑誌で目にしたプティは、そこにワイヤーをかけて綱渡りをするという途方もない夢にとりつかれるが、それを実現するためにはチームが必要になる。つまり円(サークル)の内側に入る仲間が必要になるのだ。そもそも完成すらしていない巨大なビルで綱渡りを行う計画なのだから文字通り雲をつかむような話だが、秩序や常識や既成概念に対して揺さぶりをかけようとする彼らの姿勢は、1970年代アタマの反逆的な若者像を体現してもいる。たとえばそれは、1969年に日本で起きた三億円事件などをどこか想起させる。犯人像は諸説あるが、映画『初恋』が描いたように閉塞感を抱いた当時の若者が女子高生を実行犯に仕立て、誰も傷つけずまんまと大金をせしめたという一種痛快な仮説にも通じるのではないか。


事実、ワールドトレードセンターの屋上で行う綱渡りはイリーガルな行為であるものの、結果的に落下して事故が起きなければ、誰も傷つかずに偉業を成し遂げたことになる。プティのパフォーマンスは、大道芸をはるかに超えてアートの領域に踏み込む唯一無二の表現となった。「史上、最も美しい犯罪」といわれるのもうなずける。


劇中、NYの街を行き交うひとびとが、ワールドトレードセンターを「バカでかい書類ラックのような建物」などと揶揄していたのが印象的だった。鉄筋とコンクリートの巨大な塊であり、装飾性を排除した2本の塔は、アメリカ経済の象徴である一方、無味乾燥なデザインと捉えていたひともいたことがわかる。その巨大な2本のビルの間を人間が綱渡りすることによって、即物的な建物がはじめて「生」を獲得する様は感動的だ。それは、経済の発展や文明の進歩の象徴たるタワーに対して、「ひとが綱を渡してそこを渡る」という原始的な行為によって生命を宿す儀式のようでもある。プティの行為は、見慣れた風景や建物を布で梱包することで日常を異化させるアーティスト、クリストなどと同列の表現といってよいのだろう。


ちなみに、フィリップ・プティによるワールドトレードセンターの綱渡りについては、本人と仲間たちの証言によるドキュメント映画『マン・オン・ワイヤー』(2008年。アカデミー賞長編ドキュメント賞受賞)に詳しい。『ザ・ウォーク』鑑賞後に観てみたが、本人たちの証言ゆえに生々しく、全体のトーンはよりシリアス(音楽はマイケル・ナイマンが担当し、ラストにはエリック・サティの『ジムノペディ』が流れる)。青春期特有の切羽詰まった感も濃厚で、プティの哲学と仲間たちの心情がより詳細に描かれている。


「人生はエッジを歩くことにこそ価値がある。反骨精神を持たねば。社会の規則に慣らされることを拒み、出世を拒み、繰り返しを拒み、日々すべての発想を真の挑戦と受け止める。そうすれば、人生は綱渡りになる。」というプティのことばが響く。


『ザ・ウォーク』では描かれない事実も盛り込まれているが、ではそれによって『ザ・ウォーク』が劣るかといえばもちろんそんなことはない。プティの人間性を知ることのできるエピソードであり、死と隣り合わせの体験をした者による生への固執と解放を表すものの、あれを挿入するとゼメキスが『ザ・ウォーク』で描こうとしたことがブレてしまうような気がするので、私はなくて正解だったと思う。


『ザ・ウォーク』において、9.11は直接的には言及されることはない。が、観る者の誰もが「もうこのビルは存在しないのだ」という思いで観ている。アメリカの20世紀とともにあの巨大なタワーは消滅してしまった。プティらは、自らの行為をしばしば「クーデター」と呼んでいたが、一方では誰も傷つけない文化的なテロと、一方では多くの犠牲者を出し、建築物をも消滅させてしまった自爆テロとの対比が浮かびあがる。実はどちらもアメリカではなくよその国の人間によってなされた行為なのだなと、そんなことをぼんやり考えた。


本作でプティを演じるジョゼフ・ゴードン・レヴィットが自由の女神の上から物語を語っているのも、思いのほか重要だろう。本当の意味での精神の開放や自由を手に入れるためには、ひとはエッジを歩かなければならないのだ。



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by sakurais3 | 2016-02-02 15:59

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