FURY ROAD


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71の映画サービスデイ、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を立川シネマシティの「極上爆音上映」にて鑑賞。いや、鑑賞というより体験と言ったほうがいいだろう。シネマシティの極上音響上映、通称「極音(ごくおん)」は既にそれなりの歴史があるが(僕が初めて体験したのはMJの『THIS IS IT』だったか)、今回は極音の上にさらに爆音となり、もはや最強。あらかじめ誤解のないように言っておくと、極上爆音とは、単に音がデカいだけでない。「極上でデカい」のだ。つまり、ただデカいだけじゃなく、シェイプされるべき所はシェイプされ、張りが必要な所は張りがあり、硬さが求められる部分は硬く、耳の襞を絶妙に摩擦し、届くべき所に届く。それが「極上でデカい」ということだ。何やらエロい喩えだと思うとしたら、それはあなたがエロいからだ。


すでに各所で大評判らしいので、ここであれこれディティールを書く必要もないだろうが、ひと言、素晴らしい。何が素晴らしいのかというと、この一見殺伐とした近未来SFアクションが、たとえば現存する世界初の西部劇といわれる『大列車強盗』(1903年)や西部劇のマスターピース『駅馬車』(1939年)などの「活劇」のマナーに忠実だということだ。もちろんディティールや込められたメッセージはあくまでも現代的であり、当然ながら2015年の映画なのだが、往年の西部劇のようなわかりやすい物語構造、「今画面で何が行われているのか」が瞬時に読み取れる構図や演出・編集の手法が「活劇」的なのである。


めまぐるしい展開ながらも物語や人物の動き、画面への出入りなどの動線が極めて明確なので混乱を来さない。かといって、説明的過ぎるあまり画のスピード感を損ねてしまようなヘマも一切していない。CGを駆使した昨今のアクション映画にありがちな、デスクトップ上でチクチク組み立てたがゆえに全体を俯瞰して捉えられていない画面とは対極にある、と言ってもいいかもしれない。個々のディティールが細かく描かれ、かつ全体の大きなグルーヴも保たれているという、娯楽映画としてこれ以上何を求めるのかという仕上がり。


観終わった後しばらく、極上爆音によって再現された唸るエンジン音や絶えず流れる劇伴の太鼓の音が耳の奥で鳴り響いていた。たとえば、小学校に入ったくらいの頃、父親に連れて行ってもらった映画館は、スクリーンも音響もとてつもなくデカく感じたものだが、それは自分の身体が小さかったからに違いない。小学校も高学年になると、スクリーンや音響のデカさにもすっかり慣れてしまい、物理的な驚きは失せていく。極上爆音上映は、すっかりオトナになってしまった「かつての子どもたち」を、あの体のちっちゃかった、あらゆるものごとに目と耳が驚いていた頃に戻してくれる、そんな装置だともいえる。


もちろん、どれほど音響が良くても、肝心の映画がショボければお話しにならない。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は、映画の持つ原初的な驚きやドキドキ、ワクワクを呼び覚ましてくれる。あの血沸き肉躍る感覚って奴を。


観終わって、無性にステーキが食べたくなった。


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ヘアカット100。






思えば2年以上、床屋にも美容室にも行っていない。となれば、髪が腰くらいまで届いていてもおかしくない。しかし、僕はどちらかといえばずっと短髪である。つまり、自分で切っているのだ。


という話をすると、驚かれるか引かれるかのどちらかなのだが、なぜ自分で切っているのか、理由を明確に述べるのは難しい。街には、いったいこれだけの数の店があってやっていけるのだろうかというほどの美容室や床屋があり、それなりの料金をとる店もあれば1000円でカットしてくれる店もあるので取捨選択には困らない。


が、しかし。髭が伸びたら自分で剃るのに、なぜ髪は自分で切らないのか。伸びた髪を切るだけなのに、なぜそれなりのお金を払わなければならないのか。別に凝ったヘアカットを要求しているわけでもないのに。という、そもそもの疑問があるのも確かなのだが、一度美容室に行かなくなると、どうにも行くタイミングを逸してしまうというだけの話だったりもする。あるひとに「自分で自分の髪を切れるのは空間認識能力に長けているから」と言われて妙に感心してしまったのだが、果たしてそうなのだろうか。まあ、確かにガキの頃、粘土細工や彫刻は好きだったが。


それはともかくとして、事実として2年以上床屋にも美容室にも行っていない。もともとすきバサミは持っていたのだが、たまたま百均でヘアカット用のクシとハサミを見つけたこともあり、以後これらを駆使して(というほど大げさではないが)2週間に一度のカット・マイセルフ。



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美容室や床屋でどういう手順で切っていたのかを思い出しながら切っていけば、ほとんど問題がない。重要なのはクシの使い方とすきバサミの使い方なのだが、ここでそんな講釈をたれる必要もないと思うので詳しいことには触れないでおく。専門的な技術だとされるヘアカットなるものも、コツが分かれば案外簡単なものなのだが、誰にでもできる簡単なものだということが分かってしまうと困るひとが大勢いる。だから、素人には難しいんですよということにしてあるのだろうな、とも思う。


それはそれでいい。ただ、一度コツを掴んでしまった者にとって、美容室や床屋の椅子に座っているあの苦痛の時間はできれば味わいたくない。美容室で趣味の悪いB.G.Mが鳴り響く中、チャラいあんちゃんに興味のない話を聞かされるのも読みたくもない雑誌を渡されるのも苦痛なら、町の床屋で親父に不本意な髪型にされるのも御免だ。1000円カットは技術にムラがありすぎる。


メンズオンリー、カウンターバーで順番を待ちながら酒が飲めて、趣味のいい内装で趣味のいい音楽が流れている。そんな床屋があったら行ってみたいのだが。


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いつかはセットアップ。


何の話かといえば、いわゆるスーツではなく、上下が揃いの生地、柄のセットアップに対してずっとあこがれのようなものがあったのだ。今は仕事柄、スーツを着る機会はほぼないのだが、だからこそなのか、自分にとってのスーツ/制服的なものに対する羨望のようなものがある。


だったら素直にスーツを着ればいいと思うのだが、基本的に家で洗濯できない素材はできれば着たくないという根っからの天然野郎。コットンや麻の上下なんていうのが理想で、一時期は色落ち具合が同程度のリーバイスのデニムジャケット+デニムパンツを好んで着用していたし、ここ最近は紺ブームに乗じて濃紺の綿・麻のシャツ+同素材のパンツという組み合わせも多い。ともすると作業着風になってしまう気もするので靴やカバンのチョイスが重要になるのだが、さらに難易度が高いのが夏場に着るコットンジャケット+同柄・素材のショートパンツのセットアップではないだろうか。基本的にリゾートファッションのカテゴリーということもあり、これを普段着用する場面や機会はあまりないと思われる。上下で買ってもほとんど別々に(ジャケットはジャケット、ショートパンツはショートパンツとして)着ることになるだろうから、セットアップの意味がない。


などと考えていたら、数ヵ月前に購入して以来、大活躍しているGUのギンガムチェックのシャツジャケットと同柄・同素材のショートパンツが売られているのを見つけた。ジャケットはセール価格で1500円程、ショートパンツもセールでなんと690円(税抜)。これなら、あまり着る機会がなくてもいいじゃないかと面白半分に試着してみたところ、これが悪くない。なんとなくお笑い芸人感が出ていなくもないが(鶴瓶師匠、ますだおかだの岡田あたりが着そうなイメージ)、思い切ってキャラクターを前面に出すのもそろそろ(?)アリなのでは、と思った。靴が悩みどころなのだが、フットカバーで素足のように見せて三交製靴の黒のラギッドシューズ、というのも意外と収まりが良かったし、素直にトップサイダーの白のデッキシューズあたりだったら違和感がないと思われる。


必要なのは、着るひとのちょっとした勇気だ。知人の評判は案外悪くないようなのだが、果たして。


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前回書いた「スタンダードってなんだろう」という記事について、一度長々と書いたものを誤って消してしまったため、なんとなく思い出しつつ要点だけ書いたものの、どうも言いたいことがうまく書けていなかった、結局何を言いたいのか良く分からない文章になってしまったという反省があった。まあ個人のブログなのであらためて書き直す責任もなかろうとそのままにしていたのだが、少しだけ要点を整理してみたい。


まず、世のファッションメディアでは相変わらず「スタンダード」が人気であること。著名人やファッション業界人が「マイ・スタンダード」を紹介したり、「一生もの」「逸品」「一流品」「定番」をレコメンドする企画が頻発するが、「そのひとが本当に長年使っているものなのか」という疑問がある。だとすると、例の「スタイリスト私物」のクレジット同様、それは果たして意味がある情報なのか。そもそも誰かのスタンダードが私のスタンダードでなければいけない理由はないし、スタンダードが高級で希少なものでなければならない理由もない。とはいえ、どこにでも売っている安価なものをスタンダードとして紹介しても誰も興味を持たないし、他のメディアとの差別化も生まれないという矛盾。


そんなことを考えたのは、半年に一度のものの整理・処分をしたから。半年に一度くらいは、自分の所持品を再確認し、今の自分にとって何が必要で何が不要なのかを考えてみるのも悪くない。そうすることで、無闇に新しいものに飛びつく欲望からも解放され、自分にとってのスタンダードが見えてくるかもしれない。


半年に一度の整理・処分なので、さしたる量は処分していないものの、その結果、手許に残った時計や靴は、今の自分にとって必要なものではあるが、特別高価なブランドでも希少なものでもない。自分にとって愛着があり、今の自分の生活様式にマッチしていて、かつ今身に付ける上で時代錯誤ではないもの。それが自分にとっての現時点でのスタンダードなのだ。とまあ、そんなことを書きたかったのだ。



いちばん強調したいのは、自分の持ち物を定期的に見つめ直すことの重要性だ。今自分が何をどのくらい持っているのかを定期的に把握し、それに対してどのような価値を見出しているのかを再確認しておくのはとても大切だと思う。特に服や靴に関しては、つい新しいものに目が行きがちで、気づけば似たようなものを買っていたりする。もちろん、新しいものへの興味や好奇心は、脳の活性化の面でも失ってはいけないことだとは思う。新しいものを買う、使うことがひとをワクワクさせる。ストイックに暮らして何が楽しいのか、というのも分かる。しかし、その気持ちをものにだけ向ける必要もないのではないか。


履き切れないほどの靴を所持していても、今日履く靴は一足なのだ。今、僕の家の革靴は三交製靴の三足しかなくなった(ブーツはRED WING一足のみ)。三足しかないので、下駄箱に突っ込むこともせず、廊下に置いた棚に並べてあるため、前を通るたびにいつでも目に入る。いつでも目に入るから、ブラシやグローブクロスで小まめに拭くようになる。扉がなく、通気性もいいから、今の時期カビに悩まされることもない。前回の記事のとおり、スニーカーは数足あるものの、革靴が三足だけというのは、とても簡潔だ。当分はもうこの三足があればいい、と思えるようになったのは、とにもかくにも三交製靴の革靴のおかげだ(ヤフオクなどで丸善時代の三交製靴のマイサイズが出品されているのを目にすると買い足したい気持ちにもなるが)。


ジメジメした季節だからこそ、自分の持つものと向き合い、整理してみる。なんでもかんでも捨てる必要なんてない。ときめかなくなったら捨てる? いやいや、そんな感情論も必要ないだろう。繰り返しになるが、自分にとって愛着があり、今の自分の生活様式にマッチしていて、かつ今身に付ける上で時代錯誤ではないもの。それが自分にとっての現時点でのスタンダードなのだ。


そんなこと言ってると捨てるものがない、ということであれば、無理に捨てなきゃいいのだ。「モノより、思い出」という広告コピーがあったが、モノも、思い出も、本来どっちも大切なのだ。どっちも大切なのだと分かったうえで、今の自分の暮らしや行動や居住空間と照らし合わせて処分すべきものは処分し、あるいは必要があれば買い足す。


それがきっと、スタンダード。


と、ここまで書いても、やっぱりうまくまとまらない。このテーマは思った以上に難しい。




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by sakurais3 | 2015-07-05 23:02

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