さよならは別れの言葉じゃなくて----僕たちは三交製靴のラギッドシューズを履いて歩いてゆく。※一部加筆

鉄道マニアの中に「葬式鉄」なるひとたちがいる。ある鉄道路線が廃止になる、あるいは車輛が引退するとなると、それまでほとんど見向きもしなかったにも関わらず、突如として騒ぎ立てて写真を撮りに殺到したりするひとたち。そうしたひとたちに対する一種の蔑称らしいのだが、「これで最後」といわれると「じゃあせっかくだから」と思うのは、人間の心理として特別おかしなことではない。確かにそれまで関心がなかったようなひとたちが急に騒ぎ立てるのは軽薄な気もするが、まあ人間の心理というのはそういうものだ。

しかし個人的には、それほど思い入れのなかったものに対して、「これで最後」といわれて慌てて駆け込むようなことはしたくないとは思っている。残念がる権利があるのは、かつてお世話になったひとたち、思い出があるひとたちではないか、と。そして、おそらく「葬式鉄」は、残念がっている訳ではなく、単なるイベントだと思っているはずだ(だから、思い出のあるひとたちから揶揄される)。

何年か前、東京都心のとある古いビルが解体されることになった時、知り合いが解体反対の署名運動をしていることを人伝に知った。「貴重な歴史的建造物を簡単に壊すのはおかしい」との考えからだったらしいが、本人はそのビルに何か特別な思い出があるかといえば、どうもそういうことではないらしい。

ん?と思った。確かに「貴重な歴史的建造物」なのだとは思うが、解体するのは建物や空調設備の老朽化によるもので、安全性や省エネを考えての決断だったという(古い建物は災害にも弱く、無駄に電気を食う)。ビルに入る企業や店にとって、それらは日々の業務に関わる重大な事柄だろう。なかには重要文化財として保護されるものもあるが、その数は限られている。

実は、僕が編集者として会社勤めをしていた時代、そのビルに入る企業の広報部と仕事をしていたこともあり、毎週のように通っていた。そのたびに、重厚な外観からクラシカルな内装まで、いつも惚れ惚れと眺めていたのだが、実際にそこで働くひとたちにとっては、「古臭くて使い勝手の悪い建物」に過ぎなかったようだ。僕は少なからず思い出があるので、「そうか、あのビル壊されちゃうのか」と残念には思ったが、まあそれも仕方のないことなのだろうと納得した。

「これで最後」と言われて急に騒ぎ出すひとたちを責める気はない。ただ、本当に残念がるべきなのは、それに思い入れや思い出があるひとたちなんじゃないか、という気持ちはどこかにある。店の閉店当日に行列するひとたちなどを見ると、この中に本当に残念がるべきひとたちが一体どれほどいるのだろうなどと思ったりもする。

何の話をしているのかと言えば、三交製靴のことである。またか、と思うだろうが、これは単に一軒の靴メーカーの話ではないような気がするので、今感じることをあれこれ書き留めておかなければと思い、こうして繰り返し書いている。

かつての「丸善のマナスルシューズ」は「ラギッドシューズ」と名を変え、丸善での取り扱い終了後も製造元の三交製靴でつくり続けられていることは既に書いた。そして、5月20日をもって営業を終了するということも(どうも『廃業』という言葉は重すぎてあまり使う気になれない)。

さらに、営業終了の告知以来、予想を上回る注文が入ったため、早めに注文を締め切るようだ。3月20日くらいに営業終了の告知があり、3月31日の段階で新規の注文を締め切るということは、10日程の間に相当数の注文が入ったということなのだろう。現時点では特定のサイズのみ注文可能とのことだが、それも次々に売れてしまうはずだ。マイ・サイズは黒のペッカリーのみ。ペッカリーだったら茶かなあと思っていたので、残念ながらこれはパスか。

僕は営業終了を知る1週間ほど前に新たに一足追加注文しているのだが、その時には特に営業終了に関するアナウンスはなかった。前から決まっていたけれど、日程が正式に決まるまで告知せずにいたということなのか、あるいは急に決まったことなのか、その辺りは分からない。自分は営業終了を知って慌てて駆け込み注文した訳ではない、つまり「葬式鉄」ではない、などということが言いたいのではない。営業終了を知り、じゃあ最後に一足頼んでおこうと思っても全然おかしな話ではないだろう。たまたま僕は告知の前に注文していただけだ。

しかし、「葬式鉄」はあまりいい感じがしないにも関わらず、三交製靴の駆け込み注文は納得できる。それは何故なのかと考えていて、「ああ、そうか。会社はなくなっても靴は残るんだよなあ」と思い至った。三交製靴は創業90余年らしいが、駆け込み注文で買ったひとが今から履き始めたら、創業100年、あるいは110年と同じ意味になるのだ。誰かがその靴を履き続けている限り、三交製靴は生き続ける。誰かの足とともに。「さよならは別れの言葉じゃなくて」だ。


このブログを長く読んでくれているひと、そして個人雑誌『リトル・マグ』の読者だったひとたちは、「さくらいが着目するものは遅かれ早かれ無くなる」と思っているかもしれない。まるで疫病神か死神か、という感じだが、そうではない。何もナマハゲの「泣ぐゴいねぇがぁ~」的に「無ぐなるもんねぇが~」と探し回っているわけでも、ない。ただ、なんとなーく、「今行っておかなければ」「今買っておかなければ」ならない気配のようなものをそこはかとなく感じることがある。今は目の前に確かにあるが、遠からぬうちに無くなってしまうかもしれないもの。そこに、あるノスタルジーのようものを感じているフシもある(まだ無くなっていないのだから本来ノスタルジーを感じるのは変なのだが)。

かつてつくっていた『リトル・マグ』というちいさな雑誌は、まさにそんなことだけで出来ていたのだと今にして思う。そして、今『リトル・マグ』があったなら(まあ個人雑誌なので自分がつくろうと思えばつくれるのだが)、「三交製靴のラギッドシューズ」は間違いなく採り上げるべき題材になっていただろう。実際、営業終了の話がなければ、お願いして取材をさせていただこうと思っていたくらいだった。4年間冬眠状態だった雑誌をもう一度つくろうと思うだけのモチベーションが、そこにはあった。

以前書いたように、「丸善のマナスルシューズ」が掲載された古い雑誌の切り抜きがたまたま目にとまり、そこで検索をしなければ、今も三交製靴の存在すら知らず、もちろん営業終了の話も知らずにいただろう。そう考えると、とても不思議な気がする。オカルティックな話はあまり信じないほうだが、大袈裟に言えば何かに導かれたような気がしないでもない。出会うべくして出会ったというか。

以前にも紹介した鈴木章史さんはじめ、「そこに気がついたひとたち」が何人かいたのだ。それが、ネットによってゆるやかな連帯を生んでいったようにも思える。たかが靴の話なのだが、そこには「たかが」では片づけられない何か重要なことが含まれているような気がしてならない。そもそもこれは靴の話なのか、とすら思うが、今はまだその辺りをどう言葉にすべきか、あまり整理しきれていない。


本当に残念がるべきは、自分のような昨日今日履き始めた新参者ではなく、「この靴じゃないとダメなんだ」といって何足も買い足してきた長年の愛用者ではないか、という気が拭い難くあるのもまた事実なのだが、そうしたひとたちに負けず劣らず「新しい愛用者たち」も、この靴のことが好きなのだと思う。むしろ、思い出がない分、客観的にモノとして優れているか否かで判断しているのかもしれない。

そろそろ追加でつくってもらっているラギッドシューズが届くはずなので、それを履きながらまたあれこれ考えてみようと思う。何かの縁で最後の最後に出会えたこの靴を、これから先も履き続けることになるだろう。


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by sakurais3 | 2015-04-01 01:04

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