誰かが誰かを思うとき、死は束の間忘却される----「昨夜(ゆうべ)のカレー、明日のパン」を読んで

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木皿泉の「昨夜(ゆうべ)のカレー、明日のパン」を読み終えた。

3時間もあれば読めてしまうくらいのページ数なのだが、読み終えるのが惜しくて、仕事や移動の間に丁寧にページを繰った。

描かれる物語は、木皿泉がこれまで手掛けたドラマの脚本に通じる世界ではあるが(最も近いのが『すいか』だろう)、配役を想定してい書くであろう脚本とは異なり、ここでは各登場人物のキャラクターはより抽象化されており、そのぶん、木皿ドラマのキモといえる「ことば」の輪郭がくっきりと浮き彫りになってこちらの胸に響く気がする。

若くして夫を亡くした女・テツコが義父(作中では『ギフ』とカタカナで表記される)とふたりで暮らしているという設定は、まるで小津安二郎の映画のようだ。

一見、淡々とした日常が描かれているだけのように見えるが、決してそうではない。死んだ夫・一樹の「不在の存在」によって、ふたりの日常のすぐ隣には常に「死」の気配がある。しかし、それは特に暗鬱でも悲壮なことでもなく、冷蔵庫にビールがあるように、洗面所に歯ブラシがあるように、ごく当たり前のように暮らしの片隅にぽんと置かれているのだ。

彼らは、特別に死を畏怖しているわけではないが、何かのきっかけさえあればひょいと「そちら側」にいくことを知っている。

つまり、彼らは「生きている」のだ。

何も起こらないのではない。日々は、生きることと死ぬことが絶え間なく繰り返される濃密な宇宙なのだ。

これは、死んでしまったひとのことを思いながら今を生きるひとたちの話である。死は常に隣にある。でも、それは恐ろしいことでもさびしいことでもない。

誰かが誰かを思う、あるいは思い出す。その「気」というものが、世の中をある一面では動かしている。

その思いを感じる瞬間、人は死というものを少しだけ遠ざけることができる。

それは、ジェスチャーゲームでよくやる、「それは置いといて」と横に除けるようなものかもしれない。

自分にとって、ここに記されたエピソードやことばは、これからの日々のなかで何かの拍子にふいに思い起こされることになるだろう。そんな予感がある。


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*すでに自分のなかでは、これを映像化した際のすべての登場人物の配役ができあがってしまっているのだが、これから読む人に余計な先入観を抱かせないほうがいいと思うので、ここでは書かないことにします。
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by sakurais3 | 2013-05-21 00:51

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