豹柄VSボーダー柄
2013年 02月 01日
さほど期待せずに頼んだチャーハンがおいしいと、それだけでしあわせな気持ちになる。
そして、昨日は川勝正幸さん一周忌であり、「正月のおわり」をあらわす「晦日正月」だった。年越し蕎麦を食べられなかったひとはこの日に食べるといわれている。
ということで、昨年末は年越し蕎麦を食べ損ねているので、いつもの蕎麦屋で川勝さんのことを思いつつ日本酒を飲み、鴨南蛮蕎麦を。
「最高の離婚」4話。なんともいたたまれない。映画「ブルーバレンタイン」みたいだな。
それにしても、峯岸みなみは服の袖だけでなく(ノースリーブス)髪の毛まで失くしてしまったのか。
ぜひ、浅香唯よろしく「一休さん」のドラマをやるか、シネイド・オコナーのカバーをやってほしい。
このニュースを知って思うことは、以前、指原の件について書いたこととほぼ同じ。
カバーといえば、すでに各所で叩かれまくっているこーだくまのカバーアルバムだが、なぜ小沢健二の「ラブリー」のカバーにここまで拒絶反応が起こるのか、ちょっと冷静に考えてみる。
小沢健二をはじめとする渋谷系というカテゴリーの音楽がブレイクした90年代半ば、音楽界のメインストリームはTKを中心とするエイベックス勢だった。エイベックス勢を体育会系とすれば渋谷系は文系、エイベックスをヤンキー文化の象徴とすれば渋谷系はセンス重視のアート系となるだろう。いわば豹柄とボーダー柄の対立というか、基本的に両者は派閥が違うものであり、着る洋服や行く店が重なることはなかった。
こーだくまによる「ラブリー」のカバーに対するオザケンファンの反応は、ヤンキーがいきなり文系の領域に土足で上がり込んできた(てめえの車は『土禁』にも関わらず)ことに対する拒否反応ではないか、と推測できる。
こーだくまによるhideの「ピンクスパイダー」のカバーもhideファンから総スカンらしいが、じゃあそっちはどういう構図なのかというと、よくわからない。聴いてみると、エレクトロ系というかクラブ寄りの音になっているので、そのテイストがそもそもロックギタリストとしてのhideの音楽とかけ離れている、ということなのかもしれないが、ただ、それをいえば「ビートルズをジャズアレンジでカバー」みたいなものは世の中に数多く存在するわけで、原曲通りにやったのではカバーの醍醐味がない。
ということは、「あんたにはカバーしてほしくない」という単純な話で、それは蜷川実花が岡崎京子を映画化することに対する岡崎ファンの拒絶反応とも似ているような気がする。
個人的には、「90年代も渋谷系もずいぶんと遠い昔になってしまったのだなあ」という感慨を抱くだけで、この17、8年の時間の経過によって本来の意味や価値が変容してしまったのだなあと思うしかないのだが、それは加藤ミリヤのブギーバックのカバーを聴いた時すでに感じていたことで、ヤンキーが「こっち側」に擦り寄ってきているというか、「実は昔から好きでした」みたいなことを言ってもいい空気になってしまった、ということが大きいのではないか。ヤンキーが渋谷系に擦り寄ったり、アニメやマンガを語る時代になったというか。
ヤンキーと文系の間をつなぐものとして、たとえば「ワンピース」や「アイドル」のようなものがある、と考えることもできるが、話が長くなりそうなのでこの辺で。