「かいじゅうたちのいるところ」がいるところ
2010年 02月 02日
その年最初に雪が降った日は近所の「味源」で味噌ラーメンを食べることに決めてから、はたして何年が経ったのだろうか。少なく見積もって6年は経過しているものと思われるが、夕べも当然食べましたとも。今年最初の〜雪の華が〜と歌いながら(嘘)。
験(げん)を担ぐだとかそんな大げさな話でもないのだが、無意味な「自分だけの決めごと」をひとつ設定しておくのも決して悪くはないと思う。
人によってはそれが「車を運転していて帰宅するまで信号に一回も引っかからなかったら養命酒を飲む」だったり「駆け込み乗車に成功した日は立ち食い蕎麦屋で天ぷら蕎麦にチクワ天をプラスする」だったり「靴下に穴が空いたら机の引き出しを整理整頓する」だったりするのだろう。
自分は特定の宗教を信仰してはいないし、信仰心なるものに対してはどちらかと言えば懐疑的な人間だが(信仰の自由がある一方で信仰に懐疑心を抱く自由もあるだろう)、考えてみればこれもひとつの信仰心と言えなくもない。
まぁ、単に「雪が降る寒い日に食べる味噌ラーメンは美味いなぁ」ってだけの話なんだけどね。
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昨日1日は「映画の日」。打ち合わせが早めに終了したので、「かいじゅうたちのいるところ」をシネコンで観る。「アバター」の行列を横目に劇場に入る。客席の埋まり具合は7割といったところか。
世界的ベストセラーの絵本を「マルコヴィッチの穴」「アダプテーション」のスパイク・ジョーンズがどう膨らませたのかが最大の見所。なにしろ原作は5分もあれば読み終わってしまう短い物語なのだからして、1時間以上の映画に仕上げるためには相当のディテールを重ねる必要がある。
結論から言うと、この増幅(アンプリファイ)は見事だ。主人公マックスの家が母子家庭という設定も意味があるし、原作の持つあっけらかんとしたテイストを踏襲しながらも、8歳の少年の邪気のない傲慢さと根拠なき全能感、やがて「世界」に触れることで思い知る無力感。「幼年期の終わり(byアーサー・C・クラーク)に体験する「さわやかな挫折」とでも言うべき感情を活写することで、原作の持ち味はそのままに、一歩も二歩も進んだ領域へと踏み込むことに成功している。
何より「かいじゅうたち」のブツとしての存在感と重量感、子どもの汗と唾液にまみれたぬいぐるみの匂いがしてきそうな毛並みの質感がすばらしい。このCG全盛期に着ぐるみとマペット(表情はCG)で動かすという手法が功を奏したと言うべきだろう。もし「となりのトトロ」を実写化するとしたら(絶対にあり得ない話だが)、これと同じ手法を採用すべきだ。
あるいは、新美南吉の「ごんぎつね」をこれと同じ手法で実写化したらどうだろう。サイズ的に着ぐるみは無理だから、本物の狐とマペットを使い分けて、表情はCG。あ、それじゃ招き猫ダックか!(笑)