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Ride On Timeless.

連休中は仕事関係の連絡もなく静かなのをいいことに録り溜めたテレビ番組やDVDを見たり積読のままだった書籍をまとめて読んだりしていた。


もちろん、日ごろ仕事をしながら同時に何かをインプットしてもいるわけだが、長い映画や本を集中して見る&読むことのできる連休を活用しない手はない。勉強などという意識はないものの、まとまったインプットの時間は必要だ。いや、ぶっちゃけて言えば、それはやはり勉強なのだろう。ある程度、長く仕事をしていると、どうしても自分のやりやすい手法に偏っていくものだし、いわゆる手癖でこなしてしまいがちにもなる。そんな風にこなしたりやっつけたりしていればそれなりにお金は貰えるのだろうが、それじゃ進歩もないし、なにより自分が面白くない。


そうならないためには、やはり既知より未知に触れるしかないわけで、それはたぶん「勉強」と呼んで然るべきものなのだ。これはどんな職業にも共通することだと思うが、ある程度の年月何かを続けてきたひとこそ、実は勉強が必要なのではないか。そうしないと、あっという間に古びてしまう。感性が、というより、具体的な手法やアプローチが古くなってしまうのだ。しかし、古くならないための勉強とは、新しいものに触れることで表面的にその形式を模倣するという意味ではない。現在という座標軸を分かっていなければ、そこからどうズラすのかも見えてこないし、さらにいえば勉強は新しいものだけにとどまらない。過去のものでも自分が知らないものであれば、それは当然ながら未知のものだ。


しかし、「勉強は大切だ」と声高に叫んだところで、「ですよねー」と頷いたひとが即何かを勉強し始めるかといえば、そんなことはない。勉強はひとに言われてするものではない、というのはたぶん正しい。そもそも、ひとに何かを言われなければやろうとしないひとは、きっと言われてもやらない。差し迫った事態に直面したり、勉強自体に興味がもてなければ、楽なほう楽なほうへ転がるのが人間の常だ。そして酒飲んで愚痴を言い誰かを妬むだけの人生になる。極端にいえば。


古臭くて何が悪いと開き直る向きもあるだろうが、昔浴びた風だけを頼りにするのは(それも時には必要なことだが)どうしたって限界があるし、今吹いている風を実感してそこで何をすべきかを考えたいわけで、それがとりあえず今この時点で生きているということの意味なわけで…と話が大袈裟になりつつあるが、まったくのノープランで書き進めるとこういうことになる。


もちろんテレビや映画を見たり本を読んだりするのは苦行でもなんでもなく、たいへん楽しい行為なのだが、それでもここ最近は「勉強する」という意識がどこかにある。ようするに、そこから何かしらの未知を得ようという意識があり、実はそのためのノート(表紙に『おべんきょうノート』と書いてある)もある。何がどう面白かったのか、何がどうダメだったのか、そこから連想したものや事などを羅列するだけのもので、なるべく結論づけることをせず、自分がのちのち考えるためのパーツを書きとめておくのだが、これが結構役に立つ。ツイッターも一部そういう機能はあるが、あれはあくまでもパブリックなものなので書けることとそうでないことがある。しかも、何か書くとすぐ勝手にまとめられていたりするので、そうそう不用意なことも書けない。即時性重視ゆえに後から自分でツイートを遡るのもそれなりにナンギだ。


本来、ブログというものがその「おべんきょうノート」に近いものだったはずだが、どうも自分の個人的な「おべんきょう」をいちいち外に向かって披露しなくても、という気もするので、いきおいブログの更新頻度が低くなる。



話は脈絡なく飛ぶ(実はそれほど飛んでいないかもしれない)。連休中に読んだ本のなかに村上春樹の『職業としての小説家』があった。



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書かれているエピソード自体は既に知っているものも多かったが、やはり文章のマジックというか、カッコやハイフンの多用によって巧みに予防線を張りつつ、読者の心理を絶妙にコントロールしながら、いつの間にか書き手の考えを納得させてしまう文体は見事だし、やんわりと書いてはあるが評論家やメディアに対する義憤や怒りも感じられ、結果、村上春樹という作家の正統性や評価が増すしくみになっている。


この中で、何かに対して「それってつまりこういうことでしょ」とズバッと本質を突くことのできる頭の良さをもったひとよりも、「それって一体どういうことなんだろう」とああでもないこうでもないと考え続けているひとのほうが小説家には向いている、というようなことが書いてある。これは、その通りだと思う。前者は優秀な評論家やジャーナリストにはなれても小説家にはなれないのだろう。それは、たとえばツイッターの限られた文字数である物事に対して的確に本質を突くツイートをして多くのひとからリツイートされまくるひとが優れた小説家になれるのかというと必ずしもそうではないという話と似ている。


春樹いわく、さまざまなことに対してああでもないこうでもないと考え続けるひと、あるいは見聞きして気になったものやひとをとりあえず無意識にでも保管しておける引き出しを無数に持っていて、必要に応じて中身を取り出せる潜在的な記憶力のあるひとが小説を書くことに向いているのではないかとのこと(大雑把に要約すれば)。


つまり、村上春樹はそうだ、という話なのだが、「小説家になるのはそれほど難しいことではないが、小説家であり続けることはかなり難しい」という、当たり前といえば当たり前のことも書いてあり、これもまた「でも村上春樹はそれを成し得て今もこうして小説家であり続けている」というオチになる。だから、この本を小説家入門のように読んではいけない。あくまでも「小説家・村上春樹のできるまで」として読むべきだろう。



また話は明後日のほうに飛ぶ。ビームスのスタッフの部屋を紹介した『BEAMS AT HOME』という本というかビジュアルブックがあり、その第2弾が出ているのを書店で見かけた。


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ここに写されているのは、ミニマリストの対極にある暮らしと言って良い。モノに囲まれた部屋に暮らすひとが圧倒的に多いのだが、それでも雑然とした感じがしないのは、愛着のあるモノに囲まれている様子が幸せそうに見えるからだろうか。ミニマリストの部屋を100件紹介しても面白くもなんともないだろうが、ここに掲載されている部屋や家は、どれ一つとして同じではなく、「そのひとらしさ」に満ちている。だからこそ、赤の他人が眺めていても、パーソナリティを垣間見るようで面白いのだろう。


「モノに囲まれていれば豊かなのか」という現代消費社会に対するアンチテーゼがミニマリストにはあり、それが意味するところは理解できるのだが、それは同時に「モノがなければ豊かに暮らせるんですか?」という逆の問いを生むことにもなる。一方の極にはゴミ屋敷があり、その対極にはミニマリストの部屋があり、その狭間で、『BEAMS AT HOME』のひとたちは機嫌良く暮らしを楽しんでいるように見える。「機嫌良く暮らしを楽しむ」。これが実はいちばん豊かなことではないか。基本、さっぱりと清潔な空間の中に自分らしさのあるモノが点在している状態というのがいちばん落ち着く、というのがここ最近の自分の一つの結論だ。



モノつながりで話はまたまた逸れる。雑誌『&Premium』最新号の特集は「スタンダード」だが、その中で僕も愛用している工房HOSONOのバッグが採り上げられていた(掲載されているのは工房の一番人気のリュック)。



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こういう特集は、今まで知らなかったけれど「これいいじゃん」と思えるモノとの出会いもあるにはあるが、結局のところ、自分の持っているモノが掲載されていると「よし!」と拳を握るようなところがある。これは上記の流れでいうと未知より既知なのだが、「俺、間違ってなかったんだ」と己の感覚を再確認するような側面もある。もちろん、知らないモノもたくさん載っているのだが。


以前ブログで採り上げた工房HOSONOでセミオーダーしたブリーフケース。





で、この特集を見ていて思い出したのだが、そもそも自分が工房HOSONOでブリーフケースをセミオーダーしたのは、それ以前に愛用していたザ・ノース・フェイスのブリーフケースを処分してしまい、後で後悔したことに端を発するのだった。ノース・フェイスのブリーフケースは、HOSONOと同様、ベージュのキャンバス地(表面はコーティングしてあったと記憶している)に茶のレザーをあしらったもので、当時(15年ほど前か)はほぼ毎日仕事で持ち歩き、とても気に入っていたのだが、汚れてきたのと持ち手のレザー部分がカビてしまったため処分した。今思えば、カビくらい水洗いするなりレザークリーナーなりで処置をすれば良かったのだが、当時はそんな考えには至らず、「うわ、汚い」という感じで捨ててしまったのだ。


その後、ノース・フェイスで同じようなバッグを探したものの見当たらず、ほどなくしてHOSONOのセミオーダーを知り、捨ててしまったノース・フェイスのバッグをイメージしながらオーダーしたのである。今、ノース・フェイスのブリーフケースを検索してもナイロン素材のものしかヒットしないので、もはやキャンバス地のブリーフケースは生産していないのだろう。そもそもキャンバスのブリーフケースというもの自体が機能面からいえば時代錯誤に違いない。


もちろん、今は手許にあるHOSONOのブリーフケースで事足りているのだが、「母さん、僕のあのノース・フェイス、どこにいったのでしょうね」という感じで、もう一度あれを手にしたいという思いもどこかにある。それは、無知ゆえにモノを大切にしなかったことに対する後悔というか懺悔のような気持ちからくるものだ。今なら、大事に使う自信がある。と思ってヤフオクなどで時々探してみるのだが、これが見当たらない。そもそも、当時ですらノース・フェイスのブリーフケースはマイナーな存在だったのかもしれない(主力は当然リュック系だろう)。


アウトドアブランドの似たようなバッグでいうと、L.L.ビーンのブリーフケースに近いだろうか。


これはオークションや古着屋等で売られている中古品。



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しかし、こちらも今は生産されていないようだ。やはり、この手のバッグは今どき流行らないのだろうか。確かに洗練とは程遠いものはあるが。




by sakurais3 | 2015-09-26 10:00

ライター・さくらい伸のバッド・チューニングな日々  Twitter saku03_(さくらい伸)


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