※ストーリー展開に触れているので、これからご覧になる予定の方はご注意を。
アイルランド出身で元・ミュージシャンのジョン・カーニー監督の『はじまりのうた』を観た。各所で評判が高いのは知っていたが、立川シネマシティで「極上音響上映(通称・極音)」されるとのことで、それまでおあずけにしていたのだった。
結論から言えば、これは珠玉の一本だ。音楽というものの持つ「個に訴えかける力」と「個と個をつなげる力」の両方を余すところなく描いている。通常の上映は未見ゆえ比較はできないものの、極音ならではの音の粒立ちによって、感動が何割増しかになっているに違いない。
舞台はニューヨーク。シンガーソングライターのグレタは、同じくミュージシャンで恋人のデイヴに浮気され、失意のままクニであるイギリスに帰ろうとしている。その前夜、ストリートミュージシャンをしている同郷の友人が演奏をするバーの客席にいたグレタは、促されるままステージへ。自身の曲をギター一本で弾き語りしたところ、ひとりだけ異様な目つきで食いつくおっさんが。かつては名プロデューサーとして鳴らしたが今はヒットが出せず落ちぶれた男・ダンだ。その歌声と曲に感動したダンはグレタにデビューの話を持ちかけるのだが…。
グレタを演じるのは『わたしを離さないで』『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズのキーラ・ナイトレイ、恋人デイヴをマルーン5のボーカル、アダム・レヴィーンが、プロデューサーのダンを今上映中の『フォックスキャッチャー』にも出演しているマーク・ラファロが演じている。
落ちぶれたプロデューサーが偶然出会ったミュージシャンの才能に惚れ込み、自身の夢を託しつつデビューを目指す、という設定自体、特に目新しいものではないだろう。日本でも、そんなテレビドラマがこれまでにいくつもあった気がする(菅野美穂が出た『愛をください』もそんな話だったと記憶しているが、キーになる歌が辻仁成の「ZOO」なのでだいぶ安い)。遡れば、『あしたのジョー』だって骨格はそんな話だ。
ところが、『はじまりのうた』はそうした設定としてはこれ以上ない程、個々のエピソードの重ね方や物語の展開、俳優の演技、撮影や編集なども含め、すべてにおいて高い次元に達している。今後、もしもこういう設定の話をやろうと思うひとがいたとしたら、ハードルは相当上がってしまったはずだ。
冒頭、バーで友人に促され、渋々ステージに出たグレタが自作曲の『A Step You Can't Take Back』を歌う。客は私語しまくりで曲にはあまり興味がなさそうだ。観ている我々も、うん、まあいい曲だけどね、くらいの感じで受け止めているのだが、なぜダンがそれほどまでにその楽曲に打ちのめされたのかと言えば…ということで、そこからはバーにダンがベロベロになって辿り着くまでの顛末を遡って描く。やがて観る者は、今度はダンの視線(と耳)になって、再度『A Step You Can't Take Back』を聴くことになるのだ。
その歌は、人生のどん底にいる今のダンにとって、まるで自分のことを歌っているかのように響いたのである。そして、ギター一本の弾き語りにも関わらず、ダンの耳には、ピアノが、ドラムが、ストリングスが鳴り響いている。アレンジが一瞬にして起ち上がり、名曲が(頭の中で)誕生する瞬間を画面は捉える。
※単に酩酊した者の幻聴かもしれないが、酒を飲んで音楽を聴いていて、ピアノの弾き語りの背後にドラムやギターやホーンの音が起ち上がってくるという奇跡のような瞬間は確かにある。
この曲を二度聞くと、ダンの心情とシンクロして曲の意味合いがまるで違ったものに思えるという魔法。もうこの演出の妙で、しょっぱなからヤラれてしまいました。これが、ダンの会社や家族とのすったもんだ→どん底→バーでバーボンをあおる→グレタの歌と出会う、という時系列通りの描き方だったとしたら、まるで印象が違っていただろう。
ダンはグレタをデビューさせようと追い出されたレーベルに交渉するも、「とりあえずデモつくってよ。話はそれから」となるが、スタジオでレコーディングする予算もない2人は、出世払いでミュージシャンを掻き集め、路地裏や地下鉄のホームやビルの屋上でセッションをする一発録り、オーバーダブもなしのフィールドレコーディングを開始するのだ。夏のニューヨークのノイズと息吹をまるごとパッケージし、そこに自分たちの熱をも封じ込めるかのように。その姿は、音楽を生み出す原初的なよろこびに満ち溢れ、思わずこちらの胸も熱くなる。
これみよがしに泣かせよう泣かせようという演出がある訳ではないのに、思わずグッときて目頭が熱くなるシーンも多々ある。ひとによってどこがツボかは異なるだろうが、僕は、ダンが別居中で月に一度の学校へのお迎え以外会うことがない娘・バイオレット(ヘイリー・スタインフェルド)にセッションでギターを弾かせるシーンで泣いた。妻からは「あのコ、ヘタクソよ」と言われていたが、どうしてどうして、いざ演奏してみると実にエモーショナルなギターソロをかき鳴らす。セッションに参加させようと決めた父親に応えるべく、きっと自宅で密かに練習してきたに違いない(もちろんそんなシーンはない)。音が、父と娘、そして夫と妻の溝を埋める役割を果たすのだ。そこに言葉はいらない。ギターの響きだけで、すべてが通じ合える。
そして、誰もが「痛快ウキウキ通り」な気分になる、グレタとダンの夜のニューヨーク散歩デート。二股イヤホンジャックでお互いのiPodのプレイリストを聴きながら夜の街を歩き回るシーンは、音楽がありきたりの風景を一変させ、真珠のように輝かせる力を持つという事実を我々に再認識させてくれる。
スティービー・ワンダーからフランク・シナトラ、『カサブランカ』の「As Time Goes By」まで、選曲もシブい。そして、グレタのワンピースがかわいい。一度は孤独の淵に立たされた者同士が、今、音楽を共有することで、一瞬でも心が通じ合えることの奇跡。音楽にはそうした力があることを、このシーンはさらりと描き出す。これが凡百の映画やドラマであれば、2人はこれをきっかけにデキてしまうのだろうが、そうはならない。そもそも二股イヤホンジャックのデートはダンと妻との思い出の再現なのだ。どんなにその夜が楽しくても、ダンは妻と娘の所に帰るべきだ。グレタはそう思ったのだろう。
笑うと栗山千明に似るキーラ・ナイトレイのキュートさ、さえない中年男だけど熱い心とプロデュース能力と実行力を持つダンを演じるマーク・ラファロの色っぽさ、マルーン5のアダム・レヴィーンはまあそりゃかカッコいいんでしょ、として、グレタを部屋に居候させる癒し系デブ、ジェームズ・コーデンのやさしさ(紅茶を入れる時『おいしくなーれ』とか言う)等々、キャストも絶妙だった。
本作ではじめて見事な歌声を披露したキーラ・ナイトレイは、監督のインタビューによれば、「元々音楽はそんなに好きじゃなかったみたいで、この映画のために猛特訓した」というから驚く。てっきり音楽好きだったからキャスティングされたのだとばかり思っていたのだが。
ちなみにキーラの衣装は、本人いわく『アニーホール』のダイアン・キートンを意識したらしい。
そして、この映画でもうひとつ特筆すべきなのが、ネット時代の音楽のありようをきちんと描いている点だ。野外で一発録りという極めて原始的な録音手法でアルバムをつくる一方、レーベルとは契約せず、みずからネットで「アルバムフルを1ドル」で配信することにするグレタとダン。レコーディングスタジオもプロモーションもタイアップも必要ないから、大手と契約する必要もない。今後は、クラウドファンディングでレコーディング費用を募ってもいいだろう。やりたいことをなるべくやりたいまま形にし、直接リスナーに届ける。技術的にはそれが可能な時代なのだ。うまくいくかどうかは別にして。
あるライターの記事に、グレタがタダ同然でアルバムをネット配信するのは、デイヴのライブで自分のつくった曲が大勢の観客に受け入れられている様を見て、自分もこうしてはいられないと、いても立ってもいられなくなったからだ、と書いてあったのだが、それはちょっと違うのではないかと思う(ひとの感想は感想として否定はしませんが)。デイヴのライブを見て、グレタは過去と決別したのだろう。デイヴへのクリスマスプレゼントとしてつくった曲は、自分の手を離れてデイヴのファンのものになった。今の自分にとって最も大切なのは、レーベルや市場の意向に沿ってやりたいことをねじ曲げることではなく、やりたいことをそのままダイレクトに表現することだと気づいたのだ。自転車を漕ぐグレタの表情は、過去ではなく、まっすぐと明日を見つめている。
と、長々書いているが、ひと言で言えば、素晴らしい映画だ。極音上映を観に行ける環境にあるひとは、ぜひこの機会に。